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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏

はじめに
 今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は人気作家の三谷幸喜氏の脚本により、平安末期から鎌倉幕府草創期、さらには頼朝亡き後の13人の合議制で知られる、名だたる武将たちの権力争いの様を描いた作品です。俳優陣も豪華であり、「大河ドラマは戦国時代と明治維新以外はヒットしない」というジンクスを覆す勢いで人気のようです。
 ドラマは俳優の小栗旬さんが演じられる北条義時の人生を軸に描かれていくので、平安時代末期、平家全盛の時代から始まります。
 平家全盛の中で平家側とうまく付き合いながらも、次第に頼朝に合流してゆく東国の武士たちの姿が描かれていて、この原稿執筆時はちょうど甲斐源氏の武田信義がたびたび登場するようになり、有名な富士川の戦いのシーンが描かれていました。史実とは違うかもしれませんが、あくまでもドラマですので、楽しみながらご覧いただくにはちょうど良い、軽妙な描かれ方だと思います。
 しかし、ドラマには描かれていませんが、ちょうどこのあたりから、実際には「甲斐源氏」たちは各方面で活躍し始めているのです。南アルプス市の甲斐源氏の一族たちも同じで、この頃の出来事をつづった史料である『平家物語』や『東鑑(吾妻鏡)』、『玉葉』※などには度々南アルプス市の甲斐源氏たちが登場しており、ドラマの裏側では活躍への助走が始まっていたのです。鎌倉で活躍する主要人物との親戚関係などを見てもよくわかるかと思います。後半でもご紹介しますが、例えば加賀美遠光は和田義盛(横田栄司さん演じる)の妹と結婚していますし、この後小笠原長清は上総広常(佐藤浩市さん演じる)の娘と結婚するので、そのような目で観てみると親しみがわくかもしれません。 
 
 今回は、ちょうどドラマでも描かれている平安時代末期の、南アルプス市の甲斐源氏たちの動きについて見てみたいと思います。今から800年以上前の南アルプス市の武将たちはどのような活躍をしていたのか、時代絵巻の始まりです。
 主な登場人物は、平安時代末期の頃の甲斐源氏の三大勢力(武田一族・安田一族・加賀美一族)の一角にうたわれる加賀美遠光(かがみとおみつ)の一族で、遠光と長男の秋山光朝(あきやまみつとも)と、次男小笠原長清(おがさわらながきよ)になります。それぞれの概要はこれまでにも紹介しておりますので、過去の記事を参考にしてください(2007年4月2日4月15日5月1日5月14日5月31日2019年6月14日等)。

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【図】南アルプス市の甲斐源氏を中心とした系図

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【図】山梨県の甲斐源氏勢力図

 

主要メンバーの関係性
 まずは、源氏挙兵の治承4(1180)年にさかのぼってみましょう。一般的に「源平の合戦」の名で知られる一連の戦を「治承・寿永の乱」と言います。この戦は、平家中心の世の中に対して決起を促すために発せられた「以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)」という命令書によって、頼朝をはじめ東国の源氏たちが立ち上がったのが始まりとされます。
 
 一般的には、この令旨は源頼朝に向けたものと考えられがちですが、実は、立ち上がってくれそうな有力な源氏の武将たち全てに向けられたものとする説もあります。『平家物語』などには、決起を呼びかける武士として、甲斐源氏の武田信義や加賀美二郎遠光、同小次郎長清の名も見えます。なんとこれらは、源頼朝と同列に併記されているのです。

「(前略)甲斐国には逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光・同小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃には、、(後略)」

 その当時鎌倉幕府創建に活躍した主な武将について生年と没年、さらに1180年当時の年齢をまとめたのが下の表です。一つのドラマだけを取り上げるのはいかがなものかと思いましたが、武将は難しい名前が多いですから、あえてドラマでの配役も表示しておきました。俳優さんの名前だとイメージしやすいかもしれません。
 大河ドラマの主人公北条義時は当時17歳で、小笠原長清は18歳という若武者であることが分かります。また、頼朝が33歳で、加賀美遠光は37歳という年齢構成です。また、その婚姻関係、親族関係性を見てみると、先述した通り、加賀美遠光は和田義盛の妹と結婚しているので、光朝や長清の母だったかもしれませんし(三男光行の母であることは定説となっています)、別の説として長清は三浦義純(和田義盛の叔父)の娘が母だとする史料も残されているので(『笠系大成』)、いずれにしても遠光の頃から相模の超有力豪族と縁が深かったことがわかります。このことは、加賀見遠光がそれに見合う家柄であった証とも言えるのです。

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【図】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の配役も表示してみましたので参考にしてみてください

 

源平の合戦と甲斐源氏の面々
1180年8月25日(「平家物語」)
 いよいよ源平の合戦が始まりました。 
 『平家物語』には、頼朝は石橋山の合戦で平家側に敗れた直後に義父である北条時政(政子の父)を甲斐の国へ送りこみ甲斐源氏の協力を依頼したことが書かれています。ここには、一条、武田、小笠原、安田、曽根、那古蔵人の名が挙げられており、小笠原の名も見えます。この時長清はまだ京都にいて甲斐には戻っていないので、おそらくこれは加賀美遠光のことを指しているものと思われます。後に書かれたものの中には加賀美遠光のことを小笠原と書かれるものも割と多く、そのくらい後世では小笠原の名の方が広まったことを表しているのかもしれません。ちなみにここにある那古蔵人というのも南アルプス市ゆかりの武将で、加賀美遠光の弟にあたります。今でいう南湖地区を中心とした奈胡荘を所領とした奈古十郎義行を指します。今でも南湖小学校の東には「十郎木」という地名が残っています。 
 

1180年10月18日(「玉葉」・「東鑑」では20日) 
 武田信義や安田義定の甲斐源氏の軍勢は、かの有名な「富士川の戦い」で平維盛群を撃退する大勝利を見せます。水鳥が飛び立つ音で平家が逃げ惑ったという有名なエピソードがありますが、後の時代に書かれた「東鑑」によって頼朝が主導したように描かれたので、頼朝の成果の一つに思われることが多かったのですが、最近の研究では、この戦いはそもそも武田などの甲斐源氏主導の戦だと考えるのが通説です。つまりこの時点では、頼朝と甲斐源氏(武田や安田)は対等の立場にあったということがわかるのです。

 

平氏と源氏のはざまで
1180年10月19日(「東鑑」)
 では南アルプス市の武将たちはどうしていたのでしょう?この時点まで加賀美一族は戦いの場に名前が出てきていません。
 実はこの年秋山光朝と小笠原長清は京都にいて、平知盛に仕えています。さらに光朝は平清盛の嫡男である重盛の娘と結婚していますから、あの清盛が義理の祖父ということです。これも優秀な遠光の嫡男ゆえの出世ぶりといえますし、遠光が中央の平家との繋がりを重視していたことがうかがわれます。ドラマに描かれていますが、この頃は平家との繋がりを強めることが一族の安泰を表していました。
 弟の長清は平家と結婚していなかったこともあり、平家討伐に応えるために京を離れようとしますが、とがめられ、なんとか母親の病気を理由に甲斐へ帰ってきます。8月上旬に京を出発し、9月に甲斐に入っていますが、その後しばらくはじっくりと戦況を観察していたようです。その後武田などの勢力とは別行動で駿河へと移動し、10月19日に黄瀬川宿にいた頼朝と面会するのです。ドラマでは黄瀬川宿で頼朝と義経が出会うシーンが描かれていましたが、その2日前に長清とも面会しているのです。

 

長清 鎌倉へ
 富士川の戦いの後、武田・安田の甲斐源氏の軍勢は京へ向かいますが、長清はそれとは行動を別にし、頼朝にしたがって鎌倉に入ります。やはり、甲斐源氏の中で頼朝に近い特別な動きを見せます。
 12月12日(「東鑑」)
 長清は鎌倉に完成した大倉御所への移転の際に頼朝に随行します。新邸へ向かう隊列は、先頭に和田義盛が、そして頼朝の左側に長清が並んでいます。ドラマに長清が登場するかはわかりませんが、さすがに新御所への行列シーンはあるのではと期待するところです。その時は、頼朝の左側を守っている騎馬武者に注目です!
 年が明けて1181年2月1日(東鑑)、小笠原長清は、頼朝の斡旋によって上総広常の娘と結婚します。ドラマでは佐藤浩市さんが演じる存在感の強いあの広常です。
 広常の婿であるとか、和田義盛や三浦義純と親戚であるとかと考えると南アルプス市の武将も鎌倉幕府創建時の壮大なドラマの中に存在していたのだということがよく伝わるのではないでしょうか。

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【図】加賀美、小笠原氏の婚姻関係

頼朝の信頼を得る
 この後、さらに本格化してゆく源平の合戦では加賀美遠光と長清は源範頼の軍に加わって活躍してゆきますが、その陰で一族でありながらも引き裂かれる光朝の運命も待ち構えています。同じ一族でありながらも平氏と源氏のはざまで苦悩した光朝の姿は、ドラマでも描かれた東国の武士たちの苦悩とも重なってきます。
 源平の合戦の後半についてはまた別の機会にお届けしたいと思います。
 が、この後のことを少しだけご紹介すると、源平の合戦後は、粛清された光朝と打って変わって遠光・長清親子はともに頼朝に信頼され、さらに政治の中心で活躍するようになります。なぜそんなにも信頼されたのか不思議に思われる方も多いのではないでしょうか?
 様々な研究がなされていますが、これはやはり遠光の戦略が勝ったのではないかと考えられます。自分同様息子達も京へ向かわせ、嫡男光朝を重盛の娘と結婚させることからみても、中央志向が強いことが見て取れます。秋山敬氏の研究では、京都の情勢に詳しく、平家の隆盛ぶりも息子を通じて熟知していた遠光は、武田のようにすぐに立ち上がるようなことはせずに一歩引いて見ていたのではないかと考えています。そして戦況を分析し、源氏として立ち上がる際にも、武田・安田のように頼朝と張り合うのではなく、遠光は表には出ず、京都の情勢に詳しい長清を通じて頼朝に接近したのではないかと考察されています。武田や安田とは違ったやり方で甲斐源氏の中でのトップの座を狙っていたのかもしれません。
 結果として甲斐源氏の中でいち早く頼朝と面会したことで長清は頼朝の熱い信頼を得ますし、その後頼朝が京都へ入る際の随行役として17回も『東鑑』に登場することからも、遠光の戦略が功を奏したのではないでしょうか。
 源平の合戦の後半からはますます遠光・長清親子が歴史の表舞台で活躍していきますし、頼朝亡き後の13人の合議制の時代にも小笠原家の子孫たちは活躍していきますので、その時には甲斐源氏加賀美家・小笠原家の面々がドラマに登場してくれるものと信じて、今回は一旦筆をおきたいと思います。またそのころに続きをお届けしましょう。

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【表】甲斐源氏との対応年表



『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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