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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

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2021年4月

【季節の便り】

安藤家住宅 端午の節句

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 重要文化財である安藤家住宅で、全長9メートルの巨大「本染鯉のぼり」をはじめ、武者人形など端午の節句の飾り物を展示します。男の子の健やかな成長を祝う伝統行事を歴史ある住宅の雰囲気と共にお楽しみください。

期 間]5月31日(月)まで
時 間]9:00~16:30(入館は16:00まで)
場 所]重要文化財安藤家住宅(西南湖4302)
休館日]火曜日(4日は開館)
入館料]大人300円 小中高生100円

詳しくは、こちら(南アルプス市ホームページ)をご覧ください。

お問い合せ
南アルプス市文化財課 TEL 055-282-7269
安藤家住宅 TEL 055-284-4448

 

滝沢川公園のアヤメが見頃を迎えています

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 滝沢川公園に植えられている市の花「アヤメ」が見頃を迎えています。新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、5月8日(土)に予定されていたアヤメフェアは昨年につづき中止となってしまいましたが、地元の花壇ボランティアが丁寧に育てたアヤメの花は、今年も公園を美しく紫に染めています。
 感染予防のため外出を控えている方も多いと思いますので、ゴールデンウィークを迎える南アルプス市の近況をお知らせします。

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[南アルプス市役所 秘書課]
「広報 南アルプス」はこちらから

【季節の便り】

南アルプス市消防団入退団式が開催されました

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 4月4日、令和3年度南アルプス市消防団入退団式が、712人の消防団員と関係者が出席し、若草グラウンドで感染症防止対策を実施するなかで開催されました。
 昨年度は新型コロナウイルス感染症の拡大防止により中止となったため、2年ぶりの開催となった式典では新たに入団する117人に入団辞令が交付され、新人団員代表者が消防団員として地域の安心安全を守ると力強く宣誓をしました。

 

2021年度さくらんぼ狩りのご案内

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 いよいよ5月上旬から、ハウスさくらんぼ狩りが始まります。今年は真っ赤に色付いたさくらんぼを、是非お召し上がりください。
 皆様に安心してさくらんぼ狩りを楽しんでいただくため、新型コロナウイルス感染症拡大防止の取り組みにご協力をお願いします。

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入園時間]9:00~15:30
入園料金
加温ハウス(予約制) 5月上旬~5月下旬 30分(食べ放題)3,000円
露地(9名まで予約不要) 6月上旬~6月下旬 40分(食べ放題)2,200円
詳しくは、こちら(観光協会ホームページ)をご覧ください。

お問い合せ
南アルプス市観光協会
TEL 070-2681-3881(さくらんぼ狩り専用ダイヤル)
TEL 055-284-4204

[南アルプス市役所 秘書課]
「広報 南アルプス」はこちらから

【連載 今、南アルプスが面白い】

風来りて土と成る
~綿引健の生涯と西郡の人々~

 「風土」はその土地の自然環境や精神的な環境を意味しています。辞書から離れると、外の土地から来た人が新しく異なった文化を風となって運び、土である地元の人々が受け入れてその土地の風土が生み出されるという考え方もあります。今月のふるさとメールは先月ご紹介した綿引健の生涯を通し、明治・大正時代の西郡(にしごおり)の風土を培った人々とのつながりをたどります。

 

西郡への風 旅立ち
 綿引健は安政5年(1858)8月7日、水戸の武家に生まれました。幕末、水戸学の中心人物の一人栗田寛に師事し、漢学などを修めました。同じ門下であった有野村矢崎貢(みつぐ)の強い勧めで、明治8~9年、17・18歳の時、西郡源村にやってきたと伝えられます。貢の父の保全は長崎で蘭学を学んだ医師で、医業を営みながら明治5年まで私塾を開き漢学も教えていました。そこに20歳前の水戸の青年が招かれたのです。

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【写真】栗田寛『大日本名家肖像集』経済雑誌社1907年

 

人々との出会い
 甲西町誌によれば綿引健(以下先生)は源村で教えた後、鏡中條、小笠原、荊沢へと移りそれぞれ塾を開いたとありますが、詳しいことはわかっていません。しかし資料には、先生がさまざまな人々の顕彰碑や墓誌などの撰文(記念碑などの文章を作ること)を書いた記録が残されています。このことから先生が多くの人々と出会い、絆を結び、この地において大きな信頼を得ていたことがわかります。
 源村の飯野新田で私塾を開き漢学を教えていた埴原治良吉の墓碑銘も書いています。文の中では娘婿の弁一郎とその子供達にも触れ、長男の正直は外交官で米国公使館書記官、次男弓次郎は早稲田大学生、長女桑喜代は美術学校在学と書かれています。正直は後に外務次官となり日本外交のかじ取りを担い、桑喜代は画家の道を進みました。この文からも埴原家との深いつながりがわかります。

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【写真】埴原正直

 鏡中條村での塾の場所や期間は明らかになっていません。しかし同村の巨摩八幡宮の神職を務め、寛政から天保年間塾を開き読書や習字などを教えていた斉藤操の頌徳碑の文章を作成していることから、斉藤家へ招かれたのかもしれません。また、鏡中條で代々医業を営んだ小野家にもその足跡が残されていました。明治32年、小野徹(1875-1971)は同村に「洗心堂」を開業し、医療とともに日本住血吸虫病の病害の研究、解明に尽くしました。徹の息子修が書き留めた『父・祖父を語る』には「十五歳の三月、中巨摩西部高等小学校を卒業し、九月まで今の甲西町荊沢にあった漢学塾に通って、漢学を勉強しながら医者になる決心をした。」とあり、先生から漢学を学んでいたと考えられます。生家には綿引健書の額が現在も飾られ、さらに西南湖の安藤家の中門前で撮影された先生との写真が「綿引匏水先生」の文字とともに残されていました。小野家、そして西南湖の安藤家との親交が写真から伝わってきます。また小野徹は亡くなる直前まで、漢詩を作り書に没頭したと伝えられます。

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【写真】斉藤操頌徳碑 巨摩八幡宮

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【写真】小野家に掲げられた綿引健の書

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【写真】綿引先生と小野徹 安藤家中門前

 次に移ったとされる小笠原(当時明穂村)には明治21年私立高等英和学校が設立され、先生が招聘されましたが、1年で廃校となっています。また小笠原の医師桑島尚謙の桑島尚謙の彰徳碑を撰文しています。桑島は和歌山県の生まれで、藤田村の五味家に身を寄せ、後に小笠原の桑島家を継承して医業を営みました。医術に優れ「訪れた患者は門に充ちた」と伝えられています。貧民救済のためにも奔走し県立の施薬院設立を目指しましたが、果たすことなく明治31年66歳で亡くなりました。門人達が遺徳を偲び久成寺に彰徳碑を建立し、先生がその文を作成しました。綿引健40歳の時です。

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

 小笠原から次に移り住んだのが江戸時代、駿河と信州を結ぶ駿信往還の宿として栄えた荊沢村です。荊沢村では法泉寺檀家の人たちが寺内に漢学などを学ぶ学術研究会を明治19年に設立し、明治21年塾長であった牛山竜が去った後、当地の大地主市川文蔵が強く懇願し、先生が塾長として招かれました。明治34年に新しい学舎が完成すると、名前を天民義塾と改名し、多くの人々が塾に集ったと伝えられます。

 

水害からの復興と学び
 西郡に来た先生の人生を決定づけたのは、この地の水害と言ってもいいでしょう。明治時代は、殖産興業を掲げた山梨県の政策により養蚕などの燃料として山々の木が切られ、また村々が共同管理していた山が官有林とされたため盗伐が横行し、山が荒れたため洪水が多発した時代でした。
 明治39年(1906)7月16日、甲府で1日に171mmを記録するほどの豪雨と続く7月24〜26日の雨によって、釜無川や市之瀬川、荊沢地内の裏瀬川など多くの河川が氾濫し、完成したばかりの天民義塾の新学舎が流失したと伝えられています(註1)。そのため、天民義塾は南湖村に移されることになります。南湖村は東の釜無川と西の滝沢川の度重なる水害を受けてきた地域で、住民にとって水害からの再興が大きな課題でした。そのため、明治29年には報徳思想を取り入れ、丹沢義吉と入倉善三を中心に報徳講を設立、勤倹貯蓄とともに生涯にわたって学習し、農民の自立を促す運動も行われていました。学ぶことで度重なる水害からの復興を目指したのです。この地に綿引健が招かれたのは必然だったのかもしれません。天民義塾が移された翌年起こったのが先月紹介した明治40年の大水害です。

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【写真】入倉善三=左、丹沢義吉=右

 明治40年の大水害後、南湖村水害図の他、洪水によって流路が変わった新笛吹川の石碑の文も先生が書いています(「新笛吹川紀念石之碑文」)。さらに大正4年、御勅使川扇状地全体の水害鎮守として祀られた有野の水宮神社の拝殿が修築され、それを記念した石碑も建立されました。その文を作成したのも先生でした。この地に導いた学友矢崎貢がこの時「治山・治水」と刻んだ石塔を寄進していることから、貢が先生に依頼したと想像できます。御勅使川扇状地の扇頂部に立地する有野にとっても、山を治め、川を治めることは最も重要な課題だったのです。
 このように度重なる水害に翻弄された地域や人々、そして自分自身の経験から、先生は水害の記憶を次世代に伝える言葉をさまざまな場所で残しているのです。

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【写真】水宮神社 大正4年矢崎貢寄進 治山・治水灯籠

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【写真】水宮神社記念碑

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【写真】水宮神社記念碑

 

父母のように
 多くの人と交わり、西郡に学問を広めた綿引先生はどのような性格だったのでしょうか。一説には書家で大酒豪であった父がこの地にやってきた時、地元の若者と争いとなり亡くなってしまい、その父の仇を討つためこの地にやってきたという話も伝わります(『甲西町誌』)。しかし地元の人に諭され、仇討ちを捨て、そこから一切人と争うことがなかったとも言われます。また、ナマコを肴に飲む酒が大好きでしたが、度重なる水害を経験したことにより、西南湖の丹沢義吉らとともに「楽地禁酒会」を立ち上げ、酒を断って節約し、復興を目指したそうです。謙虚で思慮深く、温和な性格は人々を惹きつけ、還暦の祝いには100名以上の門下生が集まりました。門下生は後に先生を父でもあり母のようでもあったと記しています。

 

西郡の土と成る
 20歳前に西郡に移り、さまざまな人々やその地の風景と出会い、共鳴し合い、多くの人々を教え導いた綿引先生。大正7年から9年、約100年前に世界中で大流行した流行性感冒、スペイン風邪として知られるインフルエンザによって大正8年2月26日、その命の灯火が消えることになりました。享年63歳、西南湖正福院に門下生が墓を建立し、今もその地に眠っています。

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【写真】綿引健 墓 正福院

 綿引健は亡くなりましたが、その言葉と想いは受け継がれ現在につながっています。先生に学んだ西南湖の入倉善三は仲間とともに報徳社を発展させました。西南湖報徳社は県内で唯一現在でも活動を続けています。小笠原で生まれ天民義塾で学んだ石川幸男は韮崎の杉山家に入り、運送会社を営んだ後初代韮崎町長となり、韮崎市の礎を築きました。幸男は文化への関心も高く、藤井町の坂井遺跡保存会初代会長ともなっています。南湖村で生まれた深沢吉平は明治36年、北海道音江村に入植し、同村長を経てデンマークに酪農を学び、北海道における酪農推進の先駆者の一人となりました。
 風であった先生はまさに西郡の土となり、様々な人々と新しい風土を培い、他の地域へ吹く新たな風を生み出していったのです。

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【写真】入倉善三先生頌徳碑

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【写真】入倉善三先生頌徳碑 背面


註1:『甲西町誌』による。一方で『深澤吉平の生涯』(岡本昌訓 1964)では、「初め鰍沢の高月にあったが、類焼の厄にあって、今の南湖報徳社の建物がある場所に移転した。」とある。

参考
「南アルプス市立図書館ふるさと人物室」
https://m-alps-lib.e-tosho.jp/kakukan/furusato.html
「山梨デジタルアーカイブ『匏水子集』」
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000016-YMNS0200025

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

2021年度スタート

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 2021年度がスタートしました。桜や桃の花も満開となり、市内は鮮やかに色付いています。イベントの中止などまだまだ新型コロナウイルス感染症の影響は大きいですが、感染症予防に努めながら、市内の桜の名所を巡ってみてはいかがでしょうか。お花見をしながらの飲食は今年も我慢することになりますが、桜の花の中を散歩しながら、リフレッシュと健康増進に取り組んでみましょう。
 今年度も南アルプス市ふるさとメールをよろしくお願いします。

 

ふるさと人物室第9回展示 「滅 ーめつー 小野徹」

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 小野徹(1875ー1971)は、明治32(1899)年に鏡中条村(現南アルプス市)で医院を開業する傍ら、当時蔓延していた日本住血吸虫病(地方病)の臨床医療と原因究明に努めました。山梨県の地方病対策の中心的役割を担い、日本住血吸虫の中間宿主である宮入貝の駆除のため、用水路のコンクリート化などの施策を促進しました。県の保健衛生や学校保健の向上にも貢献し山梨県医師会長、山梨地方病撲滅協力会初代会長などの要職を歴任し、昭和24(1949)年、鏡中条村長に当選し、昭和41(1966)年に若草町名誉町民となりました。
 地方病の撲滅に尽力した徹の功績をご覧ください。

会 期]令和3年4月10日(土)~9月12日(日)
場 所]櫛形生涯学習センターふるさと人物室(南アルプス市小笠原1060-1)

詳しくは、こちら(南アルプス市立図書館ホームページ)をご覧ください。

お問い合せ
南アルプス市立図書館 TEL 055-280-3300

[南アルプス市役所 秘書課]
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