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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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2008年10月

【季節の便り】

色づき始めた公園に出かけませんか?

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 市内の木々も紅葉で色づき始めています。滝沢川沿いにある櫛形総合公園では、散歩しているお母さんと子どもの姿やウォーキング、体操をしている人たちを見かけました。
 青空の下、赤や黄色に染まった木々の合間をそれぞれが思い思いに楽しんでいる様子を見ていると、この空間だけ時間が止まっているかのように感じられました。
 ときには公園のベンチや芝生に腰を下ろし寝そべってみてはいかがでしょうか。きっと、心が癒されると思います。

黄色く色づき始めたカリン

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 この時期になると、市内の至るところで黄色く色づいたカリンを目にします。熟したカリンは部屋にひとつ置くだけでも、甘い香りが広がります。
 カリンの果実に含まれる成分は、のどの炎症に効くといわれ、果実酒や砂糖漬けなどに加工され、家庭で利用されています。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提

 前回のふるさとメールに引き続き、今回のふるさとメールでは明治・大正時代の水害とそれに対する近代砂防工事について話を進めていきます。
 前回ご紹介した明治29年の水害をはじめとして、明治時代には大規模な水害が多発しました。急速に山林伐採が行われ、周辺の山々が荒廃したことが原因です。では、いったい何が山の荒廃を招いたのでしょうか。それには近代化を急ぐ「明治」という時代が深くかかわっています。
 明治6年、県知事となった藤村紫朗は、山梨県の振興策として「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」政策を掲げ、山梨県勧業製糸場を甲府に設置し、県内で蚕糸産業の育成を目指しました。その結果、煮繭や工場の動力のための燃料である大量の薪炭(しんたん)が必要となり、山林の伐採が拡大することとなりました。さらに、江戸時代には入会地となっていた山林が、明治14年以降政府の財源確保のため官有林に組み込まれたため、利用を制限された人々による森林の乱伐、盗伐を招き、山の荒廃が急速に進むことになります。こうして治水の土台である「治山」が損なわれ、大規模な水害が頻繁に起こりました。

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【写真】空石積で造られた大和川堰堤(山本政一氏蔵)
 明治16年、日本政府の要請により御勅使川を視察したオランダ人土木技師のムルデルは、早くから治山の重要性を説き、砂防工事の必要性を報告しました。この報告を受け、明治24年までに多数の砂防堰堤が御勅使川流域に造られましたが、明治期の堰堤はすべて空石積と呼ばれる石を積んだだけのものであり、ほとんどが流失してしまいます。その後、明治40年および明治43年に起きた記録的な大水害が契機となり、内務省によって「第一次治水計画」が立案され、御勅使川流域にも大正5年から昭和9年まで内務省直轄の砂防工事が行われました。この計画に沿って造られたのが、日本で初めて本格的にコンクリートを使用した芦安堰堤や源堰堤です。

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【写真】登録有形文化財の芦安堰堤

 芦安堰堤は山岳地域の芦安大字芦倉に設置された重力式堰堤です。コンクリートを使用した日本で初めての本格的な砂防堰堤で、大正5年に着工され、大正7年に竣工しました。しかしすぐに砂礫で埋まったため、アーチ式堰堤を上部にのせ、かさ上げする工法が採用されます。その結果、重力式堰堤の上にアーチ式堰堤がのせられている、全国の堰堤の中でもきわめて特徴的な構造となりました。堤高は22.65mで、アーチ式堰堤が完成した大正15年当時では、日本で最も高い砂防堰堤でした。

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【写真】芦安堰堤 アーチ式竣工時(左)と建設時(右)
(『芦安堰堤』 山梨県土木部砂防課・山梨県峡中地域振興局建設部より)

 山地から平地に至る下流部にも、コンクリートを用いた源堰堤が造られました。芦安堰堤に次いで、大正7年に着工され、大正9年竣工しました。高さ7m、長さは109.1mあり、竣工当時は日本で一番長いコンクリート堰堤でした。
 御勅使川の砂防工事の概要を報告した内務省の土木技師蒲孚(かばまこと)は、芦安堰堤と源堰堤を「御勅使川砂防の双璧」と表現しています。

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【写真】源堰提(三神みゆき氏蔵)

 このように日本の治水、砂防事業の画期となる堰堤群が整備されることにより、御勅使川の治水は大きな転換点を迎えることになります。以後下流域での砂防工事も進み、源堰堤より下流域での大規模な水害はほとんど見られなくなりました。芦安堰堤や源堰堤は、御勅使川扇状地や甲府盆地に生きる人々の暮らしを今も支えているのです。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

澄んだ空気と甘いかおりが…

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 秋の澄んだ空気にキンモクセイの甘い花の香りが漂い、秋の深まりを感じます。
 市内のフルーツ農園では、まだまだナシやリンゴ、ブドウなど、いろんな種類の果物が実っていて、味覚の秋という言葉がぴったりきます。
 この農園は、ナシの木を横にはわせるなど、あまり見かけたことがない独自の栽培の仕方をしていて、11月の終わりごろまで開園しています。

タンポポの花がいっぱい!

Malps081015_03_2 早春の道端や畑の中によく見かけるタンポポですが…。
 季節を間違えて咲く花をたまに見かけますが、目に飛び込んできたの花は、綿毛ではなく、かわいい黄色の花びらをつけたたくさんのタンポポでした。
 花には、チョウが飛びかい、まるで春が来たような不思議な光景でしたが、最近は一年を通して見ることができる西洋タンポポが多くなったとか。
 子どもの頃、タンポポの花は春に咲く代表的な花の一つだったので、ちょっと寂しい気がします。
 ちなみに、タンポポは薬用や食用になり、胃を丈夫にする働きや優れた強壮作用もあることから、冷え性の方には乾燥タンポポで作ったタンポポ茶がお薦めのようですよ。

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 稲刈りが終わった田んぼに白鷺が降りたところを写しましたが、白鳥のように堂々と飛んでいました。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

近代水害の記憶 明治29年の大水害と前御勅使川の終焉

 前回は『浅原村引移一件』を通し、江戸時代の釜無川の河道変更と、それによって水害に翻弄された浅原村の移転の歴史をみてきました。今回からのふるさとメールでは明治、大正期の水害と新たに導入された治水技術の歴史に目を向けてみます。

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【写真】御影村明治29年水害状況絵図(南アルプス市蔵)。黒線が堤防、灰色が堤防の流失箇所、黄色が洪水流、朱色の四角が被災家屋

 明治時代の水害といえば「米キタアスヤル」で知られる明治40年と43年の大水害が有名ですが、明治29年に起きた水害もまた、御勅使川扇状地に暮らす人々にとって大きな転機となりました。その年9月6日から12日まで降り続いた雨は、御勅使川を初め諸河川に大洪水を引き起こします。山梨県全域での被害は、死者33人、家屋全壊・半壊500戸、家屋浸水4,792戸、道路損壊2,445カ所を数えました。この水害の被害状況を記した絵図が、御影村(現在の六科、野牛島、上高砂地区)の行政文書として残されています。その絵図には、将棋頭のやや下流の堤防が決壊し、洪水流が六科を越え野牛島の北を東流し、上高砂の集落を押し流した状況が描かれています。また前御勅使川の氾濫(はんらん)によって、六科集落が被害を受け、さらに下流の旧運転免許センター北側付近の堤防が決壊、その水が野牛島を越えて上高砂集落に到達し、多くの家屋が被災したことも分かります。実際に上高砂集落内を試掘調査した結果、地表から約1.1mの地点から近代の瓦が発見され、その上には明治29年の水害時のものと考えられる砂礫(れき)層が厚く堆積(たいせき)していました。この前御勅使川の氾濫はさらに、釜無川左岸の堤防を直撃し、10箇所延235間(約425m)を破堤させ、竜王村や玉幡村など釜無川左岸地域にも大きな被害を引き起こしました。

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【写真・左】=明治29年水害後の前御勅使川を写す貴重な写真。旧運転免許センター付近(齋藤善一氏蔵)
【写真・右】=上高砂被災状況。
屋根と地面の距離から、砂礫によって埋もれた状況がわかる(齋藤善一氏蔵)

 この洪水が契機となり、御勅使川の水害をなくす抜本的対策として、ついに前御勅使川を封鎖する決定がなされました。かつて県の土木課長を務め、当時は山梨県議会議員だった下高砂出身の穴水朝次郎(あなみず・ともじろう)の尽力もあり、前御勅使川を締め切って、現在の御勅使川へ流路を固定することとなったのです。その方法は、将棋頭から徳島堰(せぎ)まで330間(約600m)に渡る堤防を築くものでした。工事は明治30年に着手され、翌年に完了しました。こうして前御勅使川の長い歴史に幕が下ろされたのです。

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【写真】穴水朝次郎頌徳碑(下高砂廣照寺)。碑の裏面には、明治29年の水害の内容とともに復旧時寝食を忘れて堤防上で寝泊まりし、災害復旧に尽くしたことが刻まれている

 前御勅使川の流れを封鎖した堤防は「石縦堤」と呼ばれ、前御勅使川沿いの村々だけでなく、その先にある甲府盆地中央部をも守る重要な役割を果たしたのです。
 ちなみに前御勅使川は昭和に入ると四間道路が敷設され、現在は県道甲斐芦安線になっています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

秋を感じる瞬間

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 さわやかな風が心地よい季節になり、空が一段と高くなったように感じます。
お彼岸の頃からすっきりしない天気が続いていましたが、市内では稲刈りの作業もそろそろ終盤を迎え、お天気の間に慌ただしく働いている農家の人たちを見かけました。
 また、満開のコスモスの花に、じっと身動きしないで止まっている大きなトンボに出会いました。
Malps081001_003 そして、秋の味覚といえば栗!道路にもいっぱい落ちでいましたが、今にも落ちてきそうな気配を感じる栗にカメラを向けてみました。秋を感じる瞬間でした。

「菊芋」の花が見ごろの時期です!
Malps081001_4 背が高い黄色の花がたくさんまとまって咲いていたので近づいてみたら、なんと3メートルも背丈がある花でした。しかし、名称は「菊芋」だとか。芋とは言いながらキク科の植物で、ちょっとややこしいですが、小さなショウガくらいの芋が取れ、今が花の見ごろのようです。
 収穫時期は、花も茎も枯れた後の12月ごろからで、市内で販売されるようです。病気予防にもなり、特に血糖値の高い人にはとてもよいそうですよ。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~②

 今回もさらに『浅原村引移一件』を読み解きます。
 近世初頭、釜無川の水害に翻弄されていく度も集落が移転し、ついには釜無川の対岸、西花輪村の「西河原」への仮住まいを余儀なくされた浅原村。
 しかし、この“仮住まい”はその後も長く続き、西花輪への仮住まいから60年後の元禄15(1702)年に描かれた甲斐国の絵図でも浅原村は釜川の対岸、東側に位置しています。

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【写真】甲斐国絵図元禄15(1702)年
※山梨県史資料編8近世1付図(財)柳沢文庫蔵

 このように、長く釜無川東岸に仮住まいを余儀なくされた浅原村ですが、18世紀、宝永のころになるとようやく転機が訪れます。
 竜王に信玄堤が構築されて以降、江戸時代になっても、釜無川の河道を整理する動きは連綿と続き、釜無川は正徳~享保(1711~1736)年間になってようやく、ほぼ現在の河道に定まったといわれています。釜無川の河道の整理が進んでくる中、釜無川西岸地域が安定してきたのでしょうか、『引移一件』によれば、浅原村では、釜無川の西岸、「中河原」というところに新たに耕地が開拓され、宝永元(1704)年に新田検地が行われます。しかし、川の流れが変わったためか、今度は逆に、浅原村が西花輪村に仮住まいしていたあたりに水害が頻発するようになってしまったようです。
 そこで、浅原村は、寛政3(1791)年、代官所に願い出て、新たに拓かれた釜無川西岸の「中河原」の地に移転し、ここに村をつくり、実に150年近くに及んだ浅原村の対岸への仮住まいに終止符が打たれることとなりました。18世紀末に至りようやく近世浅原村の基盤は築かれ、現在の集落もこの「中河原」を中心にひろがっています。
 しかし、浅原村が水害から完全に解放されることはなく、享和2(1802)年には幕府により浅原村の北端に「避水台(ひすいだい)」が造られています。避水台は水害時の村人の避難場所で、その後も村の苦難が続いたことを物語っています。避水台では現在も、浅原地区の人々により毎年水防祈願祭が行なわれています。

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【写真】避水台

 また、このような村の歴史を物語るかのように、浅原の人々のお寺、蓮性寺(れんしょうじ)は今でも川向こうの中央市西花輪にあります。

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【写真】蓮姓寺

 現在は、砂防技術や治水技術の発達により釜無川が決壊するような大災害の起こる確率は、非常に低くなっています。しかしながら、その確率がゼロになることはありません。10月に入り、台風シーズンも終盤を迎えていますが、『浅原村引移一件』が物語るように、つい最近まで、水害に腐心した時代があったことを思い出し、日ごろの防災意識を高めていきたいものです。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】